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自省録2

2016/6/14 輝ける闇3

【走った距離】  6.29km
【今月の累積距離】  152.48km
【ペース】 平均 6'39"/km、 最高 6'25"/km
【天気】 晴れ
【気温】 最高 28℃、最低 22℃
【体重】  65.4kg
【コース】
淀駅~会社
【コメント】
輝ける闇の3回目

③開高の少年時の体験

 戦争が終ったとき私は14歳、中学三年生であった。
(モロトフの花龍)が滝のような音をたてて降ったあとの大阪は
見わたすかぎりの赤い荒地であった。
天王寺の丘にたつと空は大きく、人の影は長く、凄惨な夕陽が
地平線にゆっくりと沈んでいくのが見られた。
東京にも大阪にもまるで吉野山の杉の原生林に降る雨のように足の長い雨が降った。
空から土まで一直線の軌跡をそのまま肉眼にきざんで雨はおちてきた。
レールが道のうえで踊り、壁が盲いて佇み、骨だけになった電車が
ところどころ蟻塚のようにうずくまっていた。
赤い物たちはおしあい、へしあい、のたうち、うねり、波また波をうって市を占領した。
いつのまにか無機物の荒地にたけだけしい雑草が生え、
裂けた水道管から夜昼なしにほとばしる水は沢に見るような小川をつくっていて、
それを透かすと粉ごなに砕けた赤い屋根瓦にはやくも薄縁いろの苔がついていた。

 大自然のふちに男や女たちは群れて掘立小屋を建て、闇市を作り、
足や拳や匕首で白昼たたかいあった。
機関銃の乱射される市もあり、ペスト菌の上陸した港市もあった。
夜になると広場のあちらこちらにかがり火が焚かれ、大鍋で肉や米が煮られ、
昨日までの帝国臣民、陛下の赤子たちは氷雨のなかでドンブリ鉢を胸に抱いて
ピシャピシャずるずる洟汁といっしよに残飯シチューをすすった。
米軍払下げのその残飯にはタバコの吸いがらや使用済みのコンドームが
まぎれこんでいるという噂があったが、誰も気にしなかった。
半切りにしたドラム缶でカレーを煮る少女はゴム長で石油缶からはみだそうとする札を
踏みしめ踏みしめ、苛烈、爽快に笑っていた。
市場というよりはそれは民族の野営地であった。
アリューシャン列島からインドネシア群島にまでおよぶ放浪のあげく人びとは
赤い砂漠の野営地へ帰ってきたのだった。
男たちはボロをひきずって影のように歩きまわり、おずおずと火に手をかざし、
メチールを飲んであっけなく悶死したり、
地下鉄の暗い水たまりに顔を浸して餓死したり、
電車の連結器からふりおとされて顔をブリキ缶のようにひしゃげたりした。
貨車にのせられて復員兵たちは故郷へ帰っていったが、
有蓋貨車の屋根にのった連中はトンネルに列車が突入するのを知らないでいるために
一瞬、頭蓋骨を粉砕されて、米俵のように灌木林へころがりおちた。

 よく私は妹をつれて阿倍野橋ヘジープを見物にでかけた。
妹は小学生で、山の村に疎開していたのが帰ってきたところだった。
ドングリや芋しか食べなかったのは都会にのこった私もおなじだったが、
なぜか妹の背にはもやもやと長い毛が生え、行水に入れてやると猿の仔のようであった。
ジープや軍用トラックは頬が淡紅色をしたアメリカ兵をのせて
陸橋を粉砕せんばかりのひびきをたてて疾駆した。
木炭で走る代燃トラックしか見たことのない私にはジープが石油で走ること、
それもふんだんに貪って走ること、そのことがじつに驚異であった。
黄昏の乞食の大群のなかを塔のようにかけぬける軍用トラックの頃上にのった
アメリカ兵の頬は落日に射されて皆薇色に輝いた。それもまた信じられない光景であった。
 妹は眼を瞠って、何度も何度も、
「病気と違うやろか」
 といった。
 声をひそめて、
「ほんまに赤ン坊食べてるのやろか」
 ともいった。

 アメリカ兵は赤ン坊を食べるので頬があんなに赤く、女と見れば
子供も老婆も見さかいなしに強姦するのだと人びとはいいかわしていた。
母はいざよなったら大和撫子らしく自殺するのだといい、
町内の医者に青酸カリをわけてもらう相談にでかけたりした。
医者は悲壮な声をひそめ、死ぬならいっしょに死のう、薬はたっぷりある。
この区の人間全部を殺したうえでまだ牛に食わせられるくらいあると保証したという。
いま、白色人種を見たことのないこの国の農民が青い眼や赤い頬にどんな恐怖をおぼえ、
どんな行動にでても私は怪しまない。
昨日まで私はマメカスやハコベを食べて操車場ではたらき、
西日本の全地方からやってくる貨車を毎日、毎日、突放したり、連結したりしながら、
いざとなれば地雷を抱いて戦車の下腹へかけこむ覚悟でいた。
死は冒険小説や漫画のように輝かしく、また易しく思われた。
連日、大空襲があって、市には難民が氾濫し、南方諸島や北方諸島の拠点は
つぎつぎと全滅し、飛行場には飛行機が一台もなくて滑走路に芋畑をつくり、
その芋からアルコールをとって飛行機をとばすのだと将校たちは中学生に真摯、
激烈な演説をした。私は仲間といっしよに腹をかかえて笑いころげたが、
その愚劣と一日も早く玉砕したいという憧れとは矛盾しなかった。
むしろ愚劣を知れば知るだけそれは昂進していくようですらあった。
しかも私たちの場合は空から焼夷弾や爆弾が降ってくるばかりで
”敵”を肉眼で見たことがない。
(鬼畜米英)の活字は新聞でのたうちまわっているが
私たちのうち誰一人として鬼畜を見たものがなく、
その眼や頬について語れるものがなかった。
それでいて私たちはもし命令があれば歯でも磨くように爆死する決心でいた。
まるで帽子から兎をとりだすように政治は”敵”をとりだせるのだった。

 一度だけ、私は殺されかかったことがあった。
操車場には毎日のように艦載機が襲来し、翼が貨車の屋根にすれすれになるくらいの
低空飛行で機銃掃射をやった。
或る日の午後、私は逃げおくれて友人といっしよに田んぼへころげこんだ。
その瞬間、《熊ン蜂》がかすめた。
大きな物量が非常な速度で後頭部にのしかかってくるのが感じられ、
私は手足がしびれてしまった。
友人と格闘しつつ泥へ沈んだ瞬間、私は積乱雲のわきたつ夏空を傾いたまま
すべっていくジュラルミンの輝きと、巨大な昆虫の眼のような風防ガラスと、
そしてはじめて、信じられないほどの薔薇色に輝く”敵”を見た。
眼はその頬が笑っていると見た。私にむかって彼ば笑いかけていると私は思った。
人は笑いながら人を殺せるのだ。
そして私は友人を蹴りたおし、しがみつく手をはらいのけ、一歩でもさきへでようとしたのだ。
私は人を殺しかかっていたのではあるまいか。
手のなかで細い肩がくにゃくにゃし、友人は私に沈められっつ、
おかあちゃん、おかあちゃんと声をたてた。
「かんにんや、かんにんや」
 そう聞いたようにも思うのだ。
友人は泥のなかに沈んだが声は異様な掌となって私の頬をうった。
みんなから脳が温いといって日頃、バカにされ、そうされることに満足している、
薄弱な彼なのに、その瞬間はまるで巨人のようであった。
私は稲のなかに倒れ、口いっぱいに甘い泥がつまった。
 「兄ちゃん。あれは病気やろか」
 「違うねん」
 「あんな桃色して、何ともないのやるか」
 「アメリカ人はみんなああや」
 私は妹の手をひいて駅へ入っていき、モーターの過熱した電車にのる。
電車はくすぶりながら走りだす。
石油缶や肩や肘におしひしがれて妹は歪み、幼魚のように大きな眼を瞠る。

 餓死体が私にはこわかった。
死は空襲の翌日の小学校の校庭や焼跡の溝のなかで慣れっこになっているはずだったが、
餓死体は戦後になってから見ることだった。
それはあちらこちらに茸のようにあらわれた。
地下鉄の構内の暗いすみっこで倒れている男の髪をつかんで駅員が顔を持ちあげ、
手をはなすと、顔は汚水へ音をたてておち、ジッとしていた。
そのとき額がコンクリートにあたって、にぶく、ゴトンと、本のような音をたてた。
その音を聞いて私はふるえあがった。
焦げた死や砕けた死はけっして私を精錬していなかった。
餓えた死は緩慢な時間をたどったあとでそこに木か石に似た堅硬さで結実していた。
いつか遠くない日に私もそうなるかもしれなかった。
家も売り、家具も売り、着物も売ってしまった母は毎日、泣いていた。
家は虫歯の穴のようにうつろで暗かった。
食卓にふかし芋をのせるとまわりから母と私と妹がギラギラ眼を光らせて
たがいの眼をうかがった。
腹がへると熱い汗がふきだして全身がそよぎたち、無数の小さな獣が群れて噛みついたり、
叫んだりするようであった。
駅の広場の野営地では魚が焼かれ、肉が焙られ、飯がもうもうと湯気をたてていて、
それらの匂いが体内になだれこむと失神しそうになる。
筋肉や知力にめぐまれたらしい大の男が子供の私とおなじようにひょろひょろと歩いたり、
道ばたにしゃがんで空を眺めたりしている光景はとらえようのない恐怖に私を浸した。
死は輝かしさも易しさも失っていまは澱み腐れた潮となった。

 学校を私は避けた。友人だちと接触するのが苦しかった。
家庭のめぐまれた彼らは急速に生きかえりつつあったが私は緩慢に死につつあった。
昼食の時間になると私ぼそっと水を呑みにぬけだし、
人のいないところで時間をつぶしてから、また教室へもどった。




by totsutaki3 | 2016-06-14 22:13 | 読書

市民ランナーの市井の日常。 日々の出来事、感動を忘れないために
by totsutaki3

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