自省録2

2018/1/17 「村上春樹と私」ジェイ・ルービン 2

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【コメント】
 村上春樹の作品の翻訳者であるハーバード大学名誉教授のジェイ・ルービンが、
 村上春樹作品や日本文学の翻訳について語る。

 本日は翻訳者であるからこそ気づいた村上作品の特徴についての分析。

 ■世界中の読者が感じること

 フレッシュで、微笑ましくて、説明を許さないイメージは
 直接に村上さんの頭脳から一人ひとりの読者の頭脳へ伝わる。
 ある密輸入者のように、村上春樹は当局の監視を避けて、
 国境を通り抜けて、関税を支払わないで、自分の心から直接に
 世界中の読者の心へ貴重な品物を届ける。その、当局を避けている気持ちは
 非常にスリリングでプライベートのように感じられるので、
 世界中の読者は、村上春樹という作家が自分のために書いてくれている、
 自分の心の中にあるものを理解してくれていると思うようになり、
 膨大な数で、村上ファンになるのではないだろうか。
 村上作品の主人公初期--初期中期の「僕」も、トニー滝谷も、カフカ君も、
 青豆も、多崎つくるも--自分の頭の中に閉じこもっていて、
 外の世界にいる人たちを他者として見ている。
村上さんが
「正確に表現してくれる」のは、世界中の人間が毎日朝から晩まで経験する
 その気持ちにほかならない。世界中の読者は単に村上作品を面白がり
 楽しんでいるだけではなくて、心の奥で感動するのだ。そしてその体験を
 文学的な言葉よりも宗教的な言葉で話す。何十万もの読者の一人ひとりに
 そういう気持ちを抱かせるから、村上さんはこの幅広い人気を獲得できる
 のだと思う。

 ■井戸のイメージ

 村上さんの小説を翻訳する仕事では、無意識や偶然が特に重要なものに
 思えてくる。デビュー作の『風の歌を聴け』以来、村上文学には
 廊下や井戸のイメージが頻繁に出てきて、現実世界から無意識の世界への
 通路の役割を果たしている。作品の人物はそういう通路を通って
 自分の人間性の核に入ろうとしたり、あるいは反対に、完全に忘れた記憶が
 同じ通路から不意に出てきて、その不思議なほどの現実性にとまどったりする。

 私が1997年に英訳を完成した『ねじまき鳥クロニクル』では、
 主人公の亨は長い間井戸の中にいて、自分の記憶や無意識の世界を探検する。
 3部作からなるこの長い小説の第2部、第5章から第11章まで、
 主人公は井戸の底に座りっぱなしだ。89ページから181ページまで
 彼は井戸の中にいて、考えごと以外は何もしていない。100ページ近くだ。
 そして、第3部でも、クライマックスの場面は井戸の中で演じられる。
 村上さんから『ねじまき鳥クロニクル』を翻訳しないかという話が
 持ち出されたのは、第1部がまだ月刊『新潮』に連載中の時で、
 作品群全体のイメージから作品の意味や重要性が判然としない段階で
 (つまり、作家自身が、たぶんまだ小説の大部分がどうなるのかも分からない段階で)
 イエスかノーかを言わなければならなかった。私は喜んでイエスと答えたのだが、
 それが3年も続く冒険の始まりになった。かたわら学者として作家論も書いていたが、
 翻訳者としてのこの経験は私にますます、文学における無意識の力への
 尊敬を抱かせた。

 ■日常のありふれたものの描写

 村上作品が世界の読者に訴える要素の一つとして、よく 
「マジック・リアリズム」とも呼ばれる神秘性が重要視されるが、私にとっては、
 それよりも彼の具体性が大事である。鉛筆削りや冷蔵庫やハンバーグ・ステーキや
 ヨーグルトといった日常のごくありふれたものの描写が
 非常に優れている作家であるからこそ彼の神秘性を読者は信じるのだ。

 たとえば、初期短編の一つである『窓』(1982年)の中で、22歳の「僕」は、
 会員の手紙の書き方を向上させる通信講座のパートタイム指導員として働いている。
 最近の手紙にハンバーグーステーキの作り方を書いて70点をつけられた
 32歳の既婚(子供はいなくて孤独な)女性の会員が、ハンバーグ・ステーキを
 作ってあげると申し出てくれる。規則に反して二人は出会い、
 一緒に音楽を聴き食事をともにするだけの関係であるが、寂しくて、甘くて、
 おかしくもある感覚が深く読者に訴えてくる。ハンバーグ・ステーキについて、
 そんなノスタルジーを誘う思い出の場面は村上さんにしか書くことができないであろう。
 同じようなことは、村上さんの2004年の小説『アフターダーク』についても
 言えると思う。この小説の多くのページは暗くなってからの都市生活の細部に
 鋭く焦点を当てている。抑制された文脈の中で、もっとも素晴らしい
「アクション」場面の一つは、白川という名前のサラリーマンが自宅のキッチンで
 ヨーグルトを食べるところである。


  白川はシャツのいちばん上のボタンをはずし、ネクタイをゆるめた姿で、
  食堂のテーブルの前に一人で座り、プレーンーヨーグルトをスプーンで
  すくって食べている。皿にはとらず、プラスチックの容器にスプーンをつっこんで、
  そのまま口に運んでいる。
  彼はキッチンに置かれた小型テレビを見ている。ヨーグルトの容器の隣には
  リモコンがある。テレビの画面には海の底の映像が映っている。
  奇妙なかたちをした様々な深海の生き物【中略】『深海の生物たち』という
  タイトルの自然記録の番組だ。音声は消されている。彼はヨーグルトを
  口に運びながら、無表情にテレビの画面の動きを追っている。


 このくだりを素晴らしいものにしているのは、ドラマ性をまったく欠いた日常生活の
 観察の完璧な正確さだと思う。ネクタイをゆるめただけの仕事の格好のままの
 サラリーマンが、ヨーグルトを食器によそうこともせず直接にスプーンを口に運びながら、
 テレビのリモコンをそばに置いて典型的な深夜番組をじっと見つめている。
 彼の心は見るからにうつろだ。世界中の、現代社会に生きている読者はこの瞬間に
 共感でき、すぐにその特別な気分に引き寄せられるであろう。
 しかし、この、ヨーグルトを食べるシーンは、表面に見えているより、もっと多くを
 内包している。事実、簡単な描写に続く数行は、サラリーマンの心がうつろではないことを
 教える。というのは、彼は別のことを考えているからだ。本の後半にあるこの点までの
 筋についてきた読者は、白川が彼の決まりきった日常の流れの中で、
 性と暴力にあふれた都市の暗部にかかわっていることを知っている。
 テレビの映像に映る「生き物」は、本の最初に置かれた「都市はひとつの巨大な生き物
 に見える」という文を思い起こさせ、白川のような普通の会社員が(もちろん他の人間も
 であるが)、かけがえのない個人であると同時に、もっと巨大で力のある
 何者かの手の中にある無名の存在に過ぎないことを想起させる。

 小説『IQ84』は、衝撃的、情緒的で幻想的な多くの場面を含むが、やはり村上さん
 の現実を省察する技術が、何百万もの広範囲にわたる読者が理解しやすい小説に
 している。たとえば、ヒロインの青豆が友人をレイプした男に制裁を加えるため、
 彼のアパートであらゆるものを一つ残らず破壊する、息をのむ場面がある。

  バットにタオルを幾重にも巻き、なるべく音を立てないように気をつけながら、
  部屋の中にあるものを片端から叩き壊していった。テレビから、ライトスタンドから、
  時計から、レコードから、トースターから、花瓶から、壊せるものはひとつ残らず
  壊した。電話のコードは鋏で切断した。本は背表紙を裂いてばらばらにし、
  歯磨きチューブやシェービングークリームは中身をそっくりカーペットの上にばらまいた。
  ベッドにはソースをかけた。抽斗の中のノートは引き裂いた。ペンと鉛筆は折った。
  電球はすべて叩き割った。カーテンとクッションには包丁で裂け目を入れた。
  タンスの中のシャツもすべて鋏で切った。下着と靴下の抽斗にはトマト・ケチャップを
  たっぷりかけておいた。


 多くの評者が指摘してきたように、日常生活にひそむミステリーを伝える村上さんの
 能力は、彼の魅力の核になっている。そのような小説が成功するには、もちろん、
 ミステリーの感覚がなければいけないが、同時にまた、日常生活の把握が細部において
 的確でなければいけない。この点において、この35年間、村上さんの描く
 ハンバーグ・ステーキとヨーグルトとトマト・ケチャップは、
 彼を現代生活の詩人にしてきたと思う。



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by totsutaki3 | 2018-01-17 21:49 | 読書 | Comments(0)

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